マトライとタウエルンハウスの間にある旧タウエルン街道の一番高い集落で生まれたシュタンプファーは、無一文の出稼ぎ織物職人の両親の息子でした。生まれた時はなんとか親戚の世話になっていたのでした。シュタンプファーが学校に初めて通ったのは11歳のときで、17歳の時にはフェルベルタウエルンからザルツブルクに徒歩で渡り、そこでギムナジウムを優秀な成績で卒業したのです。1816年、26歳のシュタンプファーはリセウム(上級高等学校)で初等数学と物理学を教える助手として雇われました。
シュタンプファーは心のこもった教師であり、生徒たちから絶大な人気を得ていましたが、当時の教育方法を考えると、これは例外中の例外といえるのかもしれません。授業はラテン語でしなければなりませんが、ドイツ語でも講義内容を出版しています。彼の6桁の対数表は、すぐに君主制時代のすべての学生の手引きとなり、20世紀に入ってからも学習教材としての版が更新されてきました。1819年、シュタンプファーはリセウムの純初等数学の正教授に任命されました。
シュタンプファーはミラベル城の塔に天文台を設置しました。 「ここザルツブルクには測地学を理解している人はいない」と述べていますが、1816年にオーストリアの一部となったザルツブルクとバイエルンの国境を測量で再確認するのに、測地学の知識を発揮しました。ウィーン高等工業学校の実用幾何学教授が空席となったため、シュタンプファーは1825年にフランツ・ヨーゼフ・ゲルストナー教授の後任となりました。ここでは実用的な科学だけでなく、後にドップラーが書いているように「科学的考え方の実践」も教えられていました。それこそ、プレヒトル学長がシュタンプファーを帝都に連れてきた理由だったのです。
シュタンプファーは、23年間の活動で測地学の分野で実践的業績を挙げ、測地学の教育体系をつくりあげました。この教育体系は、彼の名前を冠してはいませんが、オーストリアの国境を越えて、その後広く浸透して行きました。シュタンプファーは、彼の学生クリスティアン・ドップラーのような新しい物理的な原理を発見することはありませんでしたが、測定器に多くの実際的な改善を加えました。彼は、光学機器に科学的根拠を与える必要性を最初に認識した一人です。プレスルやフォクトレンダーなど、当時のウィーンのレンズ製作所の顧問となり、色収差の無い望遠鏡を開発し、オーストリアが外国にガラスの供給を依存しないようにすることにも成功し、1844年にはウィーンに最初の光学ガラス製造所の建設を指揮しました。
シュタンプファーの活動開始は、1826年のヨーゼフ・フォン・フラウンホーファーの死と偶然同じ時期になったため、オーストリアのシュタンプファーはドイツのフラウンホーファーの実質的後継者として、光学界を率いることになったのです。
シュタンプファーの個人的運命もフラウンホーファーのものと似ていました。フラウンホーファーが14歳の時、働いていた建物が崩壊し、瓦礫の下敷きになって負傷しました。シュタンプファーもまた、子供の頃に木片が落ちてきて頭を打ったことがあり、それが原因で一生苦しみました。58歳で右腕が完全に麻痺したシュタンプファーは、左手で字を書き始めたといいます。二人の業績は検証可能ですが、今日の「精密機械光学」の源流となった技術者・理論光学者としての二人の業績を証明するのは、当時も今も業界の機密性が高いため容易ではありません。しかしながら、二人の貢献がなければ生まれなかった、あるいは改善されなかった光学機器はほとんどないと言えるでしょう。この二人は、現代光学のすべての発展に影響を与えたのです。
帝国王立高等工業学校の機械工房では、シュタンプファーは気心の合う機械工のクリストフ・シュタルケと共に測量技術と天文学のための新世代の機器を多数開発しました。彼の貢献は、クレムスミュンスターのベネディクト会修道院の天文台の責任者であるシュヴァルツェンブルナーや親友マリアン・コラーとの書簡のやり取りに最もよく表れています。マリアンは1849年から、ウィーンの儀礼・教育省で働き、シュタンプファーとは17年間にわたり、毎日曜日に昼をともにして活動をつづけました。シュタンプファーは古い機器を改良し、新しい注文を引き受け、天文学を著しく豊かにする発明をしました。工房では試作品の製作だけでなく、大規模に一連の機器シリーズを製作販売し、世界的な評価を得ていました。
1833年にはストロボ・スコープを発明し、同年には「マジック・ディスク」という商品名で売り出しました。このストロボ・スコープは大評判となり、在庫は4週間で「売り切れ」となってしまいました。しかし、彼にとっては、ストロボ・スコープは研究開発の一環であり、ビジネス目的の製作ではありませんでした。彼はその原理を研究し、初めて映画撮影の科学的根拠を作ったのです。
1836年にシュタンプファーが特許を取得した水準器は、最も重要な発明となりました。彼が生きている間に、3,000台以上の水準器が生産され、世界中で販売されました。
彼のキャリアのハイライトは、1847年に帝国王立科学アカデミーが設立され、その会員にえらばれたことです。1848年に引退したにもかかわらず、さらに2年間講義を続け、1851年に後任のクリスティアン・ドップラーがウィーン大学の初の物理学講座主任教授に任命されるまで、研究所を指揮しました。
その後、事実上耳が聞こえなくなり、右腕が麻痺していたため、タウブシュトゥメンガッセ(直訳「ろうあ者小路」)のアパートから出ることはめったにありませんでした。息子のアントンは、1850年に実用幾何学の教授に任命された直後に肺結核で亡くなってしまいました。シュタンプファーは、運命のさらなる厳しい打撃を免れませんでした。3ヶ月後には末娘のバルバラ・マリアも肺結核で亡くなってしまいます。シュタンプファーの妻は、二人の子供の死後、長くは生きられず、1856年12月に亡くなります。シュタンプファーの長女ルイーズは1853年にヨーゼフ・フィリップ・ヘアと結婚します。この夫婦と、かつての機械工であったシュタルケ父子、司祭であったマリアン・コラー教授、クライル教授など、わずかの友人とだけ交流を続けていました。振り返れば、何と優れた人たちの集まりだったことでしょう。 1866年にシュタンプファーが亡くなり、高等工業学校研究所での工業開発とウィーンの「光学の短い開花」は終わりを告げました。1894年、ウィーンのヒーツィングに「シュタンプファー通り」が彼にちなんで銘名されました。
ジーモン・シュタンプファーとクリスティアン・ドップラー
ジーモン・シュタンプファーは1816年にリセウム(上級高等学校)の代用教員として雇用されたのに加えて、ギムナジウムで数学、自然史、物理学、ラテン語、ギリシャ語の授業をも担当するようになりました。シュタンプファーは、ヨハン・ドップラーに息子のクリスティアンに高等教育を受けさせるように助言しました。クリスティアンはギムナジウムでシュタンプファーからこれらの科目を教わります。
シュタンプファーは、授業教材の他に提案やアイデアを加え、自分の知識をわかりやすく伝え、授業を楽しいものにしようと務めました。彼は、「物理の箱」から取り出した機器を使って実践的な実演で生徒たちを興奮させる手法を用いました。休日にも、シュタンプファーは学生たちをザルツブルク近郊、特にウンタースベルク、ガイスベルク、ワッツマンなどの山々に連れて行きました。 「これらは学生たちにとってお祭りのようなものであり、参加することが許されることは名誉であると考えられていました。しかも、気圧計などの測定機器を伴う学びの教材が必ず遠足には含まれていたのです。」と後に娘婿となるヨーゼフ・ヘア教授が語っています。
クリスティアンが高等学校(ギムナジウム)に入学した年には、シュタンプファーはミラベル城の塔に天文台を設置する許可を得ていたと思われます。1806年にはすでに測量の定点としてミラベル城の塔の重要性が認識されていましたが、シュタンプファーはこの時点では天文学の観測実験室として使っていました。クリスティアンがドームの開き窓から夜空を覗いていたのではないかと推測されます。望遠鏡を使って、シュタンプファーは定期的に天体観測を行い、彗星の軌道を計算しました。
無類の器用さを発揮し、シュタンプファーは気圧計、温度計、距離計を自ら作り、学生が見学するのを許していました。この天文台は、1818年4月30日に市の火事で旧市街の右岸の大部分が焼失し、塔も焼失するまで、シュタンプファーの実験室として使用されていました。幸いなことに、シュタンプファーはザルツブルクとバイエルンの国境を測量したときに使った測量機器や記録を被災から免れて保存することができました。
1819年にリセウム(上級高等学校)で初等数学の教授になったシュタンプファーは、1820/21年からギムナジウム(高等学校)での教務を解任してほしいと申し出ました。ちょうどこの時期、ドップラーは1820/21 年に当時の首都であったリンツのドイツ師範学校の4年生にも通っていました。学校はホーフ通り23番地にあり、アントン・ブルックナーやライナー・マリア・リルケも通っていました。2003年にはこれを記念する銘板が建立されました。
卒業後、ドップラーはシュタンプファーの推薦で1821年にウィーンに移り、工科研究所(現在の工科大学)で数学、物理学、幾何学を学びました。純粋高等数学の教授であったヨーゼフ・ハンチュル(1769年~1826年6月2日)は、数学の結果を生活に役立てる方法を知っていました。ドップラーの成績は一貫して良好でした。彼の模範的な行動、勤勉さ、学習の進捗は特に目立ちました。ドップラーは、すでにザルツブルクの学生時代にシュタンプファーから、その成績に「有益賞」と刻まれた勲章を受けていたと言われています。
ドップラーは学業試験の後、ハンチュルの助手に応募しました。しかしながら、ハンチュルは、ドップラーの成績が最高位のものではあったものの、まだ完全には数学の訓練を受けていないと感じていました。そこでドップラーは、リセウムで大学受験資格を取るためにザルツブルクに戻ることに決意しました。
一方、ザルツブルクでは彼にとって科学的な進展が見込めないことを悟らざるを得なかったシュタンプファーは、リセウムが「二等」校に降格していたこともあり、ウィーンの数多くの競争相手に勝って、1815年にはヨーロッパで最も優れた大学の教授に就任しました。
1832年、ドイツ医師・自然科学者協会がウィーンで初めての会合を開きました。ドップラーはゲストとして会議に出席し、シュタンプファーは新しい装置である検眼機器を発表しました。シュタンプファーの検眼機器は、眼に合った眼鏡を決定するために眼や眼鏡の焦点距離を測る機器で、今日でもその原理はほとんど変わらず使用されているものです。
1849年2月24日、ドップラーは師であるシュタンプファーの後継者としてウィーンにやってきました。シュタンプファーの優秀な息子アントン(1825-1850)がドップラーの助手となりました。ドップラーが大学に新設された物理学研究所の初代所長に就任した際に、ドップラーがシュタンプファーの自慢の息子アントンを後継の助手に採用したことをシュタンプファーはおおいに喜びました。しかしアントンは1850年には若くして死亡したため、ドップラーの恩師であったシュタンプファーは、さらに2年間講義を続けることになります。このとき助手を務めたのが、後に彼の義理の息子となるヨーゼフ・フィリップ・ヘア(1819-1884)ですが、ヘアは1866年に工科研究所の初代学長に選ばれます。
ぺーター・マリア・シュスター博士(2017年)