ボルツァーノは1796年からプラハで哲学、神学、数学を学びました。数学を学んだ経歴もあり、ボルツァーノはよく「数学に弱い者は強い哲学者にはなれない」と言っていました。1805年に司祭に叙階され、哲学博士の学位を取得したその2日後には、プラハの大学の宗教学教授となりました。最初は2年任期でしたが、1807年には恒久的な教授となりました。この教授職には、日曜・祝日に大学生のため「啓発講演」を行う義務がありました。ボルツァーノは、その内容を「一般的な善を促進すること」、「幸せになること、幸せにすること、それが私たちの使命であること」、「我々は進歩しなければならないこと」という3つの原則に集約しました。ボルツァーノの啓発は評判となり、その噂はウィーンにまで広まりました。ところが、その反響の結果は解任命令となりました。1819年までボルツァーノがなんとか無事だったのはザルム=ザルム大司教王子をはじめとする友人たちの努力の賜物でした。ボルツァーノは、カトリック教と社会改革の合理的な理解に務めました。しかし、プラハの知識階級や学生へのボルツァーノの影響力が年々大きくなり、しかも神聖な場所で、国家の平和を脅かす原則を公然と述べたりしたため、異端者だと申し立てられます。こうしてボルツァーノは、1819年に罷免され、警察の監視下に置かれ、彼の作品は禁書目録に掲載されてしまいました。ボルツァーノは、1825年まで続いたいわゆるボルツァーノ裁判で、裁判官たちより精神的に優れていただけでなく、またその高い評判により、最悪の結果からなんとか逃れます。1823年から1841年までの期間は、友人のJ.ホフマンと一緒にチェコの町テコブツで秘密裏に生活することによってのみ、難を逃れたのです。ボルツァーノは教育制度の寛容な改革を進めたレオ・トゥン伯爵から後に資金援助を受けることができました。1815年以来、王立ボヘミア科学協会の会員であり、哲学者フランツ・ブレンターノと哲学・数学者のエドムント・フッサールにも強い影響を与えています。フッサールは “史上最も偉大な論理学者 “とボルツァーノを称えています。
19 世紀初頭、解析学の基礎について数学者の間で最も深い疑問を投げかけたのは、おそらくボルツァーノでしょう。「ボルツァーノが連続関数の定義以上のものを数学に与えていなかったとしても、これだけで彼はその解析学史の中での地位を確固たるものにするだろう」 とクーリッジは書いています。ボルツァーノの「関数の理論」は、後に彼の遺稿として発見され、1930年にプラハで初めて出版されました。
ベルンハルト・ボルツァーノとクリスティアン・ドップラー
1835年にドップラーがプラハに来たとき、チェコの百科事典で「彼の時代の最も優秀で完璧な人物の一人」と評されていたボルツァーノは、まだテコブツにいました。しかし、1837 年10 月19 日のフランツ・エクスナーへの手紙の中で、ボルツァーノはドップラーを “友人 “と呼んでいることがわかっています。ボルツァーノは、この時代の物理学では珍しい思弁的なドップラーに魅了されたのでした。ドップラーの物理学の考え方は、数学でのボルツァーノの考え方に似ていると思われたのです。ボルツァーノは、1842年7月24日にフェッスルに宛てた手紙の中で、「自分が生きているうちに、自分の指導の下で自分の考えに精通し、研究の仕上げの責任を負える若い弟子を探している。」と書いています。ドップラーは1840年12月3日に初めて、帝国ボヘミア科学協会の数学部会に参加しますが、力の平行四辺形に関するクーリクの論文について批判的な発言をしました。テコブツに居たボルツァーノは、この話を聴いて喜びました。クーリクの反論に対して、ボルツァーノはドップラーのプラハでの最初の論文を帝国ボヘミア科学協会の出版物に含めることを強く主張し、ドップラーが1842年5月25日に彼の原則を発表した後は、一貫してドップラーを支持します。クライルの論文発表に対抗して、この発見の年には、ボルツァーノはドップラーの論文が論文題目以上のものであり、音響学や光学、さらには波動理論の全分野にとっても同様に重要であることを強調した理論的な論文を、発表しました。
ドップラーは、アカデミーでボルツァーノの唯一の数学的な対談相手になります。驚くべきことに、1846年11月5日にボルツァーノが後に非常に有名な業績となる「連続関数」の講演を行ったとき、ドップラーが唯一の実質的な聴衆(一応参加していた気象学者フリッチュを除くと)となっていました。「連続関数」の概念の明確化は、近代的な解析学の基礎となったのです。それにもかかわらず、今日までドップラーとボルツァーノのこの出会いが、どこにも記録されていないことは驚くべきことです。両者の研究は、ほぼ丸一世紀にわたって気づかれることなく、同じような運命をたどってきました。ドップラーの数学的な研究については、エドムント・フラフカ教授の短い言及を除くと、今日まで評価されず終いでした(ペーター・シュスター著、クリスティアン・ドップラー(1803-1853)、第2巻、第3部、Boehlau、1992を参照)。
ボルツァーノはドップラーを高く評価していました。しかし、物理学者としてドップラーが歩むべき道は彼の歩んだ道とは別であることをいち早く認識し、それを甘受しています。ボルツァーノは、ドップラーの実験研究の詳細な評価について、次のように記しています。「物理学者や天文学者にはなすべき仕事がたくさんある。真に才能のある研究者には、実験や観測のための非常に重要な職業機会が提供されねばならない。彼が産み出す結果はどんなものになるのか不明だが、科学を促進するもので、然るべく感謝され評価されるべきである」。
1845年に肺の病気が急激に進んだドップラーのため、ボルツァーノは別のポストを見つけようとします。ドップラーは教授の地位を捨てて、科学行政か裕福な貴族のもとでできる職を引き受けるべきだとボルツァーノは考えました。彼は、ウィーンの科学アカデミー設立の過程で、ドップラーにポストを提供するという考えに思い至りました。実際、ドップラーの健康状態はすでに破局に近い状態に来ていました。1846年1月から6月にかけて、ドップラーは科学協会大会で11編もの科学論文を発表しました。ボルツァーノは彼の友人を心配し1846年2月7日にフェスル宛の書簡にこう書いています。「ドップラー教授は、この数週間次から次へと卓越したアイデアで私を刺激してきました。文字通り昼も夜も私の頭はそれらで占領されてきました。オーストリアにこのように創造性あふれる天才科学者がいることはほとんど信じられません。」 ボルツァーノは,「ドップラーのような科学の天才が救われるか,ペガサスのような死を迎えるかは,クライルにかかっている。最悪の事態を心配している。」とし、ドップラーに関するクライルの論評がすでに出回っているかを尋ねています。
ボルツァーノは,1848月12月18日の逝去前の、2月24日と11月30日に哲学・純粋数学部門の会議で,「数学のパラドックス」,つまり「無限のパラドックス」に関する彼の論文を読み上げましたが、そのとき,聴衆の中に数学者は一人も残っていませんでした.ドップラーはすでに旅に出ており、シェムニッツに滞在していたのです。
ぺーター・マリア・シュスター博士(2017年)