ヨハン・ハインリッヒ・フォン・メドレル(1794年5月29日ベルリン生まれ-1847年3月14日ハノーバーで死去)

1813年から親に先立たれたメドレルは、生計を立てるために個人授業で収入を得ることを余儀なくされ、1818年からは大学で辛うじて数学と天文学を学ぶことができましたが、それも断片的でした。メドレルは、ベルリンの銀行家ヴィルヘルム・べールが1829年に別荘の近くに建てた私設天文台で、ベールと共に月と火星の観測を行い、最初の正確な地図を完成しました。1830年から36年にかけて、メドレルは600夜にわたって月面を描き、この偉業で世界的に有名になりました。彼の月面図はやがて皆が引用する標準的な業績となります。博士号を取得し、1837年には天文学の教授に就任しました。1840年には、C.F.ガウスの執り成しにより、ゲオルク W.シュトゥルーべの後を継いでドルパット(現エストニアのタルトゥ)の天文台長となり、連星の観測を行いました。メドレルは科学的な活動に加えて、出版活動にも積極的に取り組み、「写真」という言葉を最初に生み出しました。1858年には暦の改革案を提出しまたが、これは採用には至りませんでした。 ‎

メドレルは1865年に引退し、ロシアの貴族に昇格し、ドイツに戻りました。ここで天文学の歴史研究に関心を向けるようになり、『天球科学史』の著作に専念しました。彼の著作「 宇宙の不思議と人気の天文学」の執筆は、1842年からは他の人によって続けられました。 ‎

‎ヨハン・ハインリッヒ・フォン・メドレルとクリスティアン・ドップラー‎

メドレルは、ドップラーの理論を支持した天文学者に対峙した反対派のリーダーであり、星の色が目に見える変化として現れるほど恒星の速度は大きいはずがないと、間違った結論を主張した最も顕著な代表者でもありました。彼はあらゆる機会を利用してドップラーの見解に反論しました。 ‎

1843年のシュトゥットガルト朝刊新聞の第51号では,メドレルはドップラーの目に偶然止まった評論を発表しています。このレビューは彼にとってあまりにも衝撃的だったので、彼は鋭い反論記事を書いて、彼もまたシュトゥットガルト朝刊新聞に掲載してもらうつもりで投稿しました。しかし、この記事は掲載されませんでした。表向きは長すぎるという理由でしたが、ドップラーによれば、実際は批判への反論が痛烈だったからだとしています。1844年には、ドップラーは『オーストリア文学芸術誌』(第15号)に反論を発表していますが、その中で次のように述べています。 ‎

「そのエッセイを読んだときの驚きと憤りの入り混じった様子は、筆舌に尽くしがたいものがありました。- メドレル氏は、連星に関する論文を見つけ、その内容全体の価値を有能に判断できるのは自分であると思いこむのは勝手です。しかし、書物や論文を著書の題名や人の服装で判断するのはいかにも性急です。その背後にはちょっと見では気づかない何か違ったものがあることがあるからです。メドレル氏は私の論文を非常に性急に判断してしまいました。」 ‎

ドップラーは、色の変化を知覚するには、観察者に向かって、あるいは観察者から離れて、毎秒33マイルの速度での運動が必要であるという結論に達していました。メドレルは、毎秒10マイル以上の運動速度、ましてや毎秒33マイル以上の運動速度は天体では全く起こり得ないと否定しています。しかし、ドップラーによれば、星の色の変化を説明するためにはこれほどの速度が必要だとしているのです。メドレルにとって、ドップラー原理は、生涯を通じて受け入れられない原理だったのです。

ドップラーはこう答えています。 「もしメドレル氏が今、どんな天体も、少なくともいわゆる恒星も、毎秒10マイル以上の速度で移動することができない、あるいは移動する可能性がないと主張されているのであれば、これは、『私、ドルパットのメドレル博士は、これがそうだと信じている』という程度の意味しかなく、そのような傲慢な信念に対して、私、ドップラーは他のほとんどすべての天文学者とともに、バランスのとれた一般的な意見を持って、メドレル氏の意見には反対しているだけなのです。」 ‎

ドップラーの理論に対しては、メドレルの批判以外にも、批判が無いわけではありませんでした。19世紀の著名な天文学者たちは、従来の研究に固執していたため、望遠鏡、分光器、写真を組み合わせた新しい研究方法である天体物理学の台頭に懐疑的な見方をしていたのです。 ‎

1860年にグスタフ R. キルヒホッフとロベルト W.ブンゼンによってスペクトル分析が発見されたことに刺激を受けたエルンスト・マッハは、1873年のドップラー原理に関する研究の復刻版の紹介文の中で、恒星スペクトルのスペクトル線偏移の測定の可能性を1860年に最初に指摘したのは彼自身であると書いています。

精密計算のための色の測定は肉眼の主観に頼ることはできませんが、マッハは次のようにさらりと書いています。『星のイメージはプリズムによってスペクトルに分解され、その中に2種類のスペクトル線が見えます。一つは地球の大気に起因するスペクトル線で、もう一つは星に起因するスペクトル線です。星の線は地球大気の線に対して移動します。その移動量から星の速度が計算できるのです。』 ‎

メドレルは、マッハに「天球科学史」で返信しました。

「もしウィーンのマッハ博士がドップラーの仮説を復活させようとする試みをしたならば、それはすでに決定的に反論されており、仮にも太陽系の固有な運動の量と方向を決定するための手段を見出したとしても、固定された位置にある恒星の運動についての私たちの知識のすべてが、そのような測定結果が得られるという期待が実現されることは無いことを物語っています。」 ‎

マッハがドップラー原理を実験的にも理論的にもすでに確認していた1861年2月21日、1848年にウィーンの帝国科学アカデミーの連携会員となったメドレルは、アカデミーからの招待状に基づいて、ペッツバルがすでにドップラーに反対する声を上げていた会場で次のように講演しました。 ‎

マッハ氏が開発しているドップラーの公式は別の方法で実際にテストすべきでしょう: 天文学はドップラー氏の説のためのテスト対象を提供することができません(ウィーン科学アカデミー、1861年289頁)。 ‎

ドップラーの原理が星光の分光学、測光学、写真学と関連していることは、ドップラーが繰り返し言及していたことです。 これは20 世紀に宇宙のプロセスの本質に深く浸透した科学の発展の始まりであり、今日でもまだ完成されていないのです。

‎ぺーター・マリア・シュスター博士(2017年)‎